野上のブログ

棟上げと大工さんを考える(tekizami、daiku、手刻み、棟上げ、大工、社員大工)

前回、久保さんもお知らせくれておりましたが、私の父6代目大彦の野上和久が先月末に永眠いたしました。あまりこういう事を述べるのもどうかとは思うのですが、色々と考える機会もありましたので、父が守り続けてきた「社員大工」を中心に大工さんの事を少し考えてみたいと思います。

大工さんの技がたっぷり出て、一番カッコいい棟上げが先月2棟ございましたので、その写真をご紹介しながら。

社員大工とは何ぞや?と申しますと、多分教科書にのるような正確な定義はないと思いますが、一般的には、社会保険のついた正社員の大工さんということになると思います。

「えっ普通じゃん」と思われる方も多いと思いますが、この社員大工制をとっている工務店は地域で1社2社位というのがこの業界の肌感覚ではないでしょうか(もちろん1社もない所もあると思います)

そりゃ、工務店の社長さんが大工さんだったら、社員大工ってことなるから、お一人やお二人でやっている工務店も多いでしょうから、数の上では増えるかもしれません。けれど、それなりの規模で社員大工制をとっている所となると、先ほどの感覚で良いだろうし、これは色々な工務店の方とお話していても大体共通の所。

それなりの規模でも、例えば社長の弟さんとか、おじさんとか、お父さんとか、が大工さんで、その人は社員だけど、他は違うという場合もあるし、常に仕事を依頼している(抱えている)大工さんが居て、それを広い意味で社員大工と言っている場合もあると思います。

要は、普通の正社員として社会保険や福利厚生をつけている社員大工さんが5名以上(何人かは難しい所だけど)揃っている工務店はかなり少ないということです。(でなけりゃ、いくら「墨付け手刻み」の伝統技術を常に行っている弊社といえども、山口県や高知県から若い大工さんが来たりはしないはずですから)

じゃ、普通はどうなるの?と言えば、

大工さんはそれぞれが個人事業主の方でその方に依頼、要はアウトソーシングをするというのが、世間一般のほとんどです。だから工務店は社長と監督さん営業さんが社員で、大工さんも設計も外注するのが一番多いんだと思います。

けれど、その色合いは各社少し違って、特にこだわりの工務店ならば、しっかりした大工さんにやってもらわないと話にならないから、年中仕事を確保してお抱えっぽくしたり、それこそ「専属」と言う形で言葉は悪いけど縛っているという所もあるとお聞きします。

ではなぜ正社員にしないのか?もう皆様お分かりだと思いますが、それは経費がかかるからです。皆様のお給料からひかれている社会保険などは、それと同額を会社が再度お国にお納めするわけで、正社員ならば日当として渡す以上に経費がかかります。また、ここが一番肝心ですが、外注ならば仕事がある時だけ依頼すればいいわけで、仕事がなくってもその分の日当やお給料を負担しなくてよいわけですから。(ここは少し乱暴に述べています。仕事がないから「ごめんね。」ばかりしていたら大工さんも他所にいっちゃうわけで、そんな簡単なものではないと思います。だけど、仕事と仕事の切れ目などの数日などは「ゴメンね」できるわけですから)

昔、同業者の方に、「大彦さんは社員大工なんてどんくさいことしてるけど、それなら雨降っても、槍降っても大工さんに日当払わなあかんやん。そんなアホなことしてたら潰れるで」と言われたこともあります。

その時は、若かったこともあって、「車や電化製品をつくる会社が仕事がない際に払うお金がもったいないからと言って、全部外注に出したりするんですか?大工さんは木の家の心臓部じゃないんですか?」なんて反発したことも覚えています。

《今や、メーカーさんでも製造も設計もアウトソーシングしてしまうのが効率的との話もよく聞きますし、それが経営としては正解なのかもしれません。けれどそれなら自社に技術の蓄積はないわけでどうなるのだろうと思うのです》

※ここで、誤解の無いように申し上げますが、私は社員大工制でなければいけない!と言っているつもりはありません。尊敬する工務店でもそうでない所はありますし、個人事業主の大工さんに依頼する形で立派な家づくりをされている所もあります。弊社は社員大工が好きだと述べているだけです。

でも、これは何も工務店業界があくどいなんてことではなくて、元々の大工さんの文化や風習もあるのです。昔は期間はそれぞれなのかもしれませんが、親方に見習いが弟子入りし、例えば5年仕込んでもらって、一年お礼奉公してから、一人の親方として独立していくという風習があったそうです。

だから、そもそもが一匹狼的な所があったわけです。

弊社も曾祖父の時は大工さんが30名程居ったそうですが、見習いで入ってきた子が修行が終わり、和歌山各地で独立していったそうです。たまに、お年の昔大工さんをやっていた方から、あんたのお爺さんやひいお爺さんに世話になった。ずっと昔若い頃大彦さんで修行をさせてもらったんよ。なんて言われることもありますから。

ただ、昔は地域のしっかりとした親方が若手を育ててたのだけど、その育った大工さんを外注先として依頼するだけの工務店(稀に若い子を育てている所もあります)ばかりであれば、果実だけをとるような事ばかりをしていれば、当然若い大工さんは居なくなります。

昔は何とか機能していたシステムも、とてもとても各工務店やビルダー、メーカーさんに入っている一人の大工さんが若い弟子を育てるなんてことは随分前からできなくなってきて、このままならえらいこっちゃというのは誰もが分かっていました。

そういうこともあり、父は社員大工制を守り続けてきたのです。確かにバリバリ働いてくれる大工さんの経費だけでなく、育てる経費もかかります。やはり厳しい修行の一面もありますから育つ前に辞める子もいます。経費はやっぱりかかります。でも、若い子を次代の大工さんを育てていくには会社がリスクをとってやらなければ難しい所があります。

時代が変わり、人手不足、特に大工不足が顕著になってきますと、世の中の論調も変わります。色々な業界紙でも、これからは「社員大工にせねばならない!」などと叫びます。

昔は時代遅れと言われていた「社員大工」が、何と時代の先端にいった感さえあります。

昔は馬鹿にもされていたのに、何と他府県の立派な工務店さんからも、「大彦さんはどのようにしているのですか?」なんて聞かれたり、わざわざ見学に来てくれたりするようになりました。

隔世の感があります。

「先見の明がありますね」なんておべんちゃらを言ってくれる方もいますが、私にそんなものありません。父が守っていたからそのまま続けただけです。もちろん、先ほども述べたように自分たちがずっと責任をもつお家の心臓部は自分たちで行いたい!との強い思いはありましたが、それもそもそもの基本が「社員大工」であったわけだから、そうなったのかもしれません。

よく知っている工務店さんでも「これからは社員大工だ!」ってことで、若い大工見習さんを苦労して入れたのに、すぐに結局個人事業主に変えてしまった所もいくつかあります。色々な理由はきいたけど、「やっぱり社員大工制がそもそもない所だと、育成や待遇、など色んな所が難しいのだな」というのが正直な感想です。

その点、やっぱりそもそも体制があった私は物凄く恵まれているわけです。もちろん、父だけでなく祖父や曾祖父、その前から続くという大きな遺産の上で。

弊社は今、社員大工が7名です。父の代から居てくれている50代と60代が二人。30代が二人。20代が二人。10代が一人です。そして、それに加えてずっと親方として活躍してきて、随分昔から弊社をほぼ専属の形で助けてくれているベテランの大工さんが4名いらっしゃいます。

《この方々は誘っても今更社員にはなりません。やっぱりうちで育たないと社員大工となるのは難しいのかもしれません。これはまた別の機会で。そこに、去年からあと2人主に大阪の仕事を助けてくれる素晴らしい大工さんが加わってくれています。また、この方々だけで現場が進むということはありません。弊社の社員大工とコンビで現場を進めてもらっています》

父の代から居てくれているのが50代と60代の2人、そしてこの8月に亡くなった尾崎棟梁で、他の皆は私の代で増えたわけだけど、その皆を育ててくれたのも昔からいる大工さんたちです。

また、毎年新卒の見習い大工さんも入ってもらっています。来年の4月も大阪出身の子が一人加わります。とにかく弊社は人に恵まれていて、その子たちもいい子ばかりですが、大工さん職人さんはやっぱり特殊な世界で、学校の勉強の延長とはならず、本当に色々な世界観や「できる」ということもがらっと変わるから、向いていないということですぐに辞める子も居ます。(本当に大工さんが好きだ!という子は続きます)

けれど、それでも良いと思って採用は続けています。その分の経費などを考えると、確かにある程度できる個人事業主の大工さんを探してきた方が良いのだけど、やはり弊社で一から育った方が、弊社特有の細かな一手間かけた丁寧な仕事も体にも頭にも染みつくし、時には失敗をすることで、家を建てる責任や覚悟を育てることもできますから。

また、少し変わって、木などの建築材料もそうです。全国の腕利き工務店の皆様が、弊社の現場を見学しくれた際も「大彦さん、どうやってこんなに良い木ばかり揃えるの?」と聞かれたりしますが、そのルートを築いたのは父です。もちろん、そこから変わることもあるし、改良を加えたりもしていますが、杉ならココ、桧ならココ、ヒバなら、銘木なら、という父が築いたベースを基にしています。

設計だってそう。

私を、住宅ではとても力量があって、この世界では有名な設計事務所に頼んで修行にだしてくれたのも父。そこで私が鍛えられたおかげで今の弊社の設計があります。設計も私を含めて4名居りまして、彼らも私にはもったいない「いい人」ばかりで、設計力もしっかりあり、ちょっとやそっとで他の工務店には負けないと思うけど、その設計力のベースにはやはり父の判断があるわけです。

だかり、今、弊社にはしっかりと設計できるスタッフと、社員大工が揃っています。この二つを持っている工務店というのは全国的に見てもなかなかないと思うし、規模の大きいビルダーさんや大手のハウスメーカーさんでは絶対にないことです。

こうして考えてくると、先見の明があったのは父で、ただ私はその中で一生懸命やっただけ。

父が倒れ、私が25歳で帰ってきた頃には会社の経営状態はかなり良くなく、そこを立て直すのにはなかなかの苦労もあったし、私が正式に社長を引き継いでから15年ほど赤字も一回もなく(当たり前ですが。そして利益率など恥ずかしい年もありますが)、父よりも私の方が…と思っていたところもあるけれど、父が亡くなり色々と考えると、先ほども述べましたが父の敷いたレールの上を一生懸命走っているだけど、とてもとてもと思い直しました。

まだまだ書きたいことはありますが、物凄く長くなってきたので、そろそろ。

最後にお葬式で皆様に挨拶させていただいたことを。今まで父がお世話になった方々への感謝をこめまして。


小さい頃は、ただただ恐い父親でした…

けれど、不思議と嫌いになったことは一度もなく、本当の意味での大きな優しさをもった父でした。

そのため、またそれに加えて自分の信念と強い正義感をもち、裏表がこれほどない人は見たことがないという位の男でしたから、思うままに皆様にも申し上げ、ご不快な思いをした方もいらっしゃるかと思います。父に代わってお詫び申し上げます。

55歳で脳梗塞、60歳で心筋梗塞、そこから心不全、また色々な持病ももって、父がバリバリやれたのは50代半ばまででした。カッコつけの父からすれば、晩年はもしかしたら不甲斐なく悔しかったのかもしれません…

けれど、母のとてもマネのできない献身的な介護と皆様のお支えがあって、そこから20年生きられたことは、やはり父にとって幸せなことだったと思います。

私と父の親子関係は、多分普通のそれとは少し違って、

家業を繋ぐ6代目と7代目として、家を建てるという人の一生に関わる責任重大な仕事継いでいくものとして、その「苦しさ・辛さ・大変さ、そして大きな喜び」を分かり合える同士として、

だけど父には負けたくない!と思うライバルとして、

なのに、家が出来たら、誰よりも父に褒めてもらいたいと思ったりして、

上手く表現できませんが、やっぱり父は私にとって、特別に大きな存在でした。

先般、父と二人三脚で大彦を支えてくれた尾崎棟梁も亡くなりました。若い頃から苦楽を共にし、必死に守ってくれた大彦を、私も素晴らしい従業員の皆としっかりと守り、立派な会社に、より隆盛にし、従業員皆・お客様・地域の方に喜んでいただける会社にしていくことを父に約束します。

おとうちゃん。

今まで本当の本当にお疲れ様でした。

そして、ありがとう。


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